2017年3月26日 京都・外
『擦過』アフタートーク
佐々木敦×野口順哉(空間現代)

20170831-kukangendai1

佐々木 ライブお疲れさま。早速だけど、この「擦過」という曲の成り立ちを教えてもらっていいですか?

野口 最初は愛知県芸術劇場の主催企画《サウンドパフォーマンス・プラットフォーム》というイベントで依頼を受けて、サウンドパフォーマンスというお題を出されたので、いつもとは違うライブにしたいなと。元々、既存の持ち曲を繋ぎ合わせて、ひとつらなりのライブをみせるということに挑戦していた時期だったのですが、それを更に発展させて、そのときは持ち時間が30分でお願いされていたので、30分で丸々一曲を作ってみたらどうだろうと

佐々木 そのための完全な新曲を作曲したと

野口 はい。それで作った曲のタイトルを「擦過」と名付けて。この「外」ができたときに、更にもう少し膨らませて一時間の楽曲として、名古屋でやったことを土台にして作った、という経緯です。基本的に「擦過」は一つの基本となるリズム・フレーズをどう手を換え品を換えみせていくか、という方針で作ってきたんです。こういった曲をやるのは本当に初めての挑戦で。というのは、一時間で一曲というのはもちろんそうなんですが、空間現代は今まで「複雑なリズムですね」とよく言われますけど、いわゆるリズムということには実は向き合ってこなかったんです。でも、やっぱりリズムは手ごわすぎて、終わったあとに毎回反省してますね。まだものにできていない感じが正直あります

佐々木 だからむしろ繰り返し何公演もやる、みたいな感じなのかな?

野口 ということもありますね。少しずつ内容も手を入れていけたらなと思うんですけど

佐々木 僕は今日初めて「擦過」を観て、「おー!」って思いながら聴いていたんだけど、僕はこれまでに空間現代の今までの変化とか、ライブも数知れず観てきているわけですけど、なぜかある意味今回の「擦過」が近年の中でもっともロックを感じたんだよね。空間現代はむしろ、ここのところずっと、ロック的なものから…ロック的というのも曖昧な言い方になってしまうけど、そういう本来人がロックだと思うようなことに抗うというか、それを引き剥がすようなことを色々な形でやってきたバンドだと思っていて。それは基本的にはそうなんだけど、そういうことの延長線上に、結果として、ロックが芽生えちゃったみたいな感じをうけたんだよね。いわゆるロック的なノリを感じて、それがなんなのかなー?と思って聴いててさ、さっき、リズムに向き合ったって言ってたけど、もともと空間現代はそういうリズムの要素が多いけど、実際この曲はとりわけドラムの山田くんの負担が重いよね

野口 今回はほとんど彼が作曲しているようなものですからね

佐々木 山田くんのハイハットが大活躍していて、ハイハットがメイン楽器と言っても過言ではないような作りになっている。今日のトークのテーマを「ミニマル/マキシマル」と野口くんが設定してくれたけど、それに加えてロックという話でいうと、空間現代の前にどんなバンドや人がそういった音楽をやっていたかというと、反復とかいわゆるミニマリズムみたいなことをロックバンドというフォーマットに変換して移植してやるという歴史があって。例えばクラウトロックみたいなものもあるし、僕がリアルタイムで聴いてきた直近のものだとマスロックって言葉があるよね、空間現代ももちろんマスロックぽいねって言われたこともあると思うけど。マスロックというのはマスマティカル・ロックのことで、つまり数学的ロックということだけど、日本だと、現在ではどちらかというとエモコアと区別がつかないような言われ方をしていて、意味がちょっと違ってきちゃってるけど。本来はいわゆるミニマルな、ずっとフレーズを繰り返すとか、繰り返しの反復の重ね合わせみたいなものと、ロック的な楽曲のあり方をどうやって接合するか、というのがマスロックの挑戦だったわけだ。90年代にそういうマスロックは生まれて、ポストロックという言葉も言われ始めたのは90年代半ばで、それらは併走していたわけだけど…今日聴いていて40分くらいのところで減速するじゃない?減速したあとの展開が一時期のジム・オルークっぽいなと思ったんだよね。ジムのガスター・デル・ソルの2ndアルバムで『Crookt, Crackt, Or Fly』というすごくロックっぽいアルバムがあるんだけど、あの頃のガスター・デル・ソルとかね。ジムがちょうどそれくらいの頃にやっていたBrise-Glaceとかも。ジムもまさにその頃にロックとミニマリズムをどう接合するかということをやってたと思うんだよね。そのときにジムにインスパイアを与えていたものっていくつかあると思うんだけど、一つはドン・キャバレロというバンドで。元々ドン・キャバレロはパンク流れのバンドだったんだけど、段々ミニマルな感じになっていって一曲がどんどん長くなっていって、10分とか超えるような感じになって、それはなぜかというとずっと繰り返すから。それが一番頂点に達したのが『アメリカン・ドン』っていうアルバムで、そのときの中心人物だったイアン・ウィリアムスという人がドン・キャバレロを辞めて、バトルスをはじめる。バトルスの一番最初のころの感じとかも空間現代のある部分と似てる部分があると思うんだよね

野口 そうかもしれないですね

佐々木 それらの前にはいわゆるミニマルミュージックというものがあって、それは例えばスティーヴ・ライヒとか、フィリップ・グラスとかがいて。それをさらにロックのバンドでやったらどうなるんだろうみたいな素朴なところから入っていって、それが独自の進化を遂げるみたいなことが90年代にあって、そのある部分がマスロックと呼ばれたと。そのときに行われたことというのは、基本的には単純な繰り返しとか、反復をどう処理するかということだったと思うわけ。今でもそういうような流れはあると思うけど、空間現代がそのマスロック的な流れの中で画期的だと思うのはそこにズレ的なものを導入するということを考えて、考えただけじゃなくて実際にやったことだと思うんだよね。そのもっともラジカルな部分が一番極大化した形のものが、この「擦過」でやられているな、と思ったんだよね。今までやったことない感じって言ってたけど、むしろ僕は他の空間現代の曲の中にも、そういう要素はあるんだけども、そこからズレのミニマリズムみたいなものを抽出して一時間それを突き詰めるみたいなことをやったのが「擦過」なのではと。90年代のそういうバンドのマスロックと言われていた人たちの発想というのはデジタルじゃないわけよ、結局数えて…まあ君らも数えているわけなんだけど、数えてやってるとかいろいろ重ね合わせるとかみたいなことを昔のマスロックっていうのはある程度感覚的にやってたと思うわけ、スタジオでいろいろやってみてとか、もしかすると、曲を作っていく過程は、スタジオでアイデアを出しあって、という意味では空間現代も同じで変わっていないのかもしれない。でも、クラブとかダンスミュージックが特異な進化を遂げたこととマスロックが云々っていうことって時期的に重なっていて、それがゼロ年代に入ってどんどんわけわかんないことになっていくわけだけど。君らはいわゆるロックバンドよりもそういうクラブミュージックのリスナーでもあって。空間現代はエレクトロニックなダンスミュージックの中で起きている革命みたいなことをもう一回マスロックの側に回収して無理やりもう一回やるみたいな感じもあるでしょう?そこはかつてのマスロックと全然違うというか、やっぱり、デジタルミュージックがある閾値を超えたあとのマスロックだなって感じをすごくうけるんだよね

野口 さっきズレの導入って仰ってましたけど、佐々木さんの言ってるズレってどういうズレですかね?

佐々木 例えばさ、いろんなレベルのズレがあると思うんだけど、その話も後半にしたいと思ってるんだけど、元々さ、反復するということはズレるということではないわけですよね。あるリズムなりフレーズのユニットがあって、それがずっと繰り返される、ということなわけだから。さっき言っていたマスロックのバンドは基本的にはそういうことをやっている。ただ、いくつかのユニットがレイヤー的に重なっていったときにそれがちょっとずつズレていれば、ズレているように聴こえる。ズレてるんだけど、それが本当にただズレているだけだったら、ただズレてるだけってことになっちゃって、ただズレてるだけがずっと続くっていうことのある種の驚きっていうのもあるといえばあるけど、でもずっとズレているにも関わらず、やっぱりある部分で合うんだよね。ある部分で合うということが実はズレのなかで重要なポイントで、つまりただズレてるだけじゃない。ズラしているんだけど合っている部分がある、という。裏返すと合っているけど、ズレている部分があるってことなんだけど、そういうことを三人でやっていると思うわけ。とりわけ今日のこの「擦過」という作品は、それがあまりにも極端かつ、難易度が高くなっているので、わざとズラしてるのか、ズレているのががわからないという(笑)

野口 それは両方あって、最初から基本となるフレーズ自体がズレているわけですよ。それでお互い引っ張られてしまうみたいなことを自ら首を絞めるみたいな感じでやっていて、それぞれが「引っ張られないぞ」みたいな感じでやっているんだけど、結局絶対に関与してしまうもので。これは他の曲でも言えることですが、例えば、ギターと歌だけ、拍を無視して、独走状態で、そこにベースとドラムを無理やりのせるとか。そういうのは今までの空間現代で良くやってきたわけですけど、そのときから思っていたけど、「上手いとはなんだ?」みたいなことになるわけですよ。無視していいんだったら、ズレていいんだったら…と。でもズレていることが基本構造としてある曲だと、上手いズレかたってあるべきなんだけど、音楽の基礎知識がない三人が集まってバンドやっているので、まあよくわからないなりに、何十回、何百回とライブでやっていると、今日良くできたな、みたいな日もあるわけですよ

佐々木 ほう、それがなんでなんだかよくわからないっていう?

野口 今日はいいズレかただったな、みたいなこともある訳ですよ。いい無視のしかたとかいい距離感とか、タイミングとか。それをつぶさにコントロールしていくという方向はもちろんありうると思うんですけど。このタイミングで、この拍で正確にズレる、みたいな。でもこれまでは色々な理由でやれなかった訳ですよ、やれないしやらなかった訳です。今回「擦過」というのは延々と続く途中でブツ切れることがない一時間で、普段のライブで他の曲とかを繋ぎ合わせているときは、バンっと切断しつつ元々違う曲を一つらなりにしていくっていう試みだけど、今回は最初から最後まで絶対に途切れさせないみたいな感じで、初めて一時間をやっていて。上手くできているときは感触があるんですよ。それもまだ自分たちの力量では数値化できないんだけど。感覚ということだけでやっていくと、まだ上手くできなくて。だから佐々木さんの質問に答えると、うまいズレ具合っていうのはきっとたぶん正解はあるし、それを目指さないと、ただ逃げてるだけって感じもあるんです。だけどズレたくないんだったらもっと簡単なのにしろよって話もあるし。そういう意味でのズレって、なにを求めているのかというのは、今回の曲でますます謎が深まってしまったというか(笑)。もっとがんばってやってかないとなって思ったってことなんですよね。色々と自分たちの手法も、手癖になってきてしまっている部分もあって、だから新曲を書くぞってなったときに、この「擦過」って曲は僕らとしては圧倒的に異物感があって

佐々木 ズレているということと、合っているということがまずあって。ズレてるつもりなのに合っちゃうところがあるとかってことを言ってたけど、そもそもズレてるということと合ってるということの二項対立みたいな考え方自体が甘いというか、足りないということなのかなとも思うんだよね。さっき聴きながら思ったのは、アンチ・グルーヴというか…、とりわけ反復というものはグルーヴを生み出しやすいと思うんだよね。でも安易なグルーヴ的なものが生じないように、切断を入れたり、ズレを入れたりすることを空間現代はやってるわけだ。さっきマスロックやミニマルの話をしたけど、空間現代がやってることって実はマスロック批判みたいな部分もあると思っていて、マスロック的な発想も土台にはあるんだけど、それをもう一回チョップしてやってるからグルーヴが生じにくいようになってると思うわけ。そのときに、例えば、縦ノリと横ノリみたいなものがあるじゃない?で、ズレのグルーヴは縦ノリでも横ノリのグルーヴでもなくて、言葉遊びっぽくなってしまうけど、それを斜めにするにはどうしたらよいか?ってことだと思うわけ。だから、単にズレているだけだと、結局「あ、これはズレてるな」ということと「あってるな」ということになっちゃうんだけど、そのどちらでもないところに斜めのグルーヴが生まれると、「ああ、これは今までに聴いたことがない形でいくつかの音が同時に鳴っているんだな」、ということになると思うんだよね。それってもしかすると、さっき野口くんが言ったみたいに、実は結構普通に数値化できることなのかもしれないとも思うわけ、ただそれをやるのが大変っていうことで。で、そのあとに出てくる問題は、じゃあそれはめちゃくちゃ練習して、それが本当に完璧にできるようになって「擦過」という曲が一時間完全に何もかもがビシっと決まって、毎回一部の隙もなく繰り返すことができれば、それでいいのか?という

野口 その問題もありますね。この「外」を作って、ライブを月に5、6回やる感じなんですよけど、「すごい感動しました!」と言われたときって、けっこうミスってるし狙い通りいってなかったりもする。それってなんなんだろう?って前から皆で言っていて、でも、本当に突き抜けたライブっていうのはやっぱり自分たちの演奏の手ごたえとしても、やってて手ごたえがあるし、お客さんもすごく感動したって言ってくれる。その突き抜けたライブというのは、なんなんだろうっていうのはすごく思っていて。ミスしてたらお客が喜ぶかといったらそうでもないし。でも最近の仮説はミスったりすると、なにか「アレ?」ってなるじゃないですかその「アレ?」みたいなのを欲してるタイミングで「アレ?」ってなるとお客さんとのキャッチボールが生まれているんじゃないか説というのがあって

佐々木 それってどういうこと?

野口 なんていうのかな、出来事になっちゃうというか。「おや?」って。「何かが起きたぞ?」となるじゃないですか。そのなにかが起きたぞという質感と、こっちが狙い通り組んだ、狙い通りばしっと、出来事を起こしたときは、本当は違う質なんだけど…

佐々木 でも時としてそっちの方が超えると

野口 いや、超えるとはいわないですけど…それはわかんないんだけど、意外とこの二つは通低してるかもと…。ある意味でお客さんからみてて、ここらで出来事起きてほしいなっていうときに、たとえば、俺ら演奏者側でいうしょぼいミスみたいな、なっちゃったときに、それも楽しめたみたいなことになっちゃうというのは

佐々木 そういう仮説が出されているんだ、でもそのときに仮想されてるリスナーはそうとう高度だよ

野口 もちろん意識できてるわけじゃないと思うんですけど

佐々木 失敗したときにうけるというのは、結局そういうことなんじゃないか、ってことね

野口 はい。なにか、潜在的にそういうのを待っているというか

佐々木 お客さんがでしょ?

野口 そうそう。でもやってる側もそうなのかもしれないですよね。でも本当は、本当に突き抜けてるのがやりたいんですよ。こっちも手ごたえばっちりだし、お客さんもばっちりみたいなことをやりたいんです。でも演奏者的には微妙だったど、すごい評価が高いという日もあるから、単なる良し悪しじゃなくてそれをどう整理していったらいいんだろうと思ったときに…

佐々木 だから一種の偶然性の導入みたいなことだよね

野口 即興性みたいな

佐々木 実際の即興ではなくて、結果としての即興性だよね

野口 そういうのってエッセンスになってるのかなと思っちゃうわけです、でもわざとミスするようにライブするみたいなことはできないわけですよ。だから、それは無しで、それを目指すことはしないんだけど…

佐々木 どうやってそれじゃない形で突き抜けるかという話だと

野口 そうです。それをやりたいっていう話ですね

佐々木 さっき、空間現代はいわゆるエレクトロニックなものに影響を受けているということを言ったけど、実際そうなわけじゃない?例えば、一時期のマーク・フェルとかジュークとかフットワークみたいな音楽とかをバンドがやったら、みたいな。でもそれって、そもそもの発想がちょっとおかしくて、つまりそういうものって、PCとか機械で作ってるわけですよね。機械だからそういうこともできちゃうわけ、でもそれを聴いて、これめっちゃかっこいいな、俺らバンドでやろうみたいなところの時点で無理があるわけでしょ。でもその無理がたぶん空間現代の最大の面白いところの一つで。そのときに、さっきの話を聞いてて思ったのは、またもう一回ミニマルミュージックの話に接続するとさ、さっきは、ミニマルミュージックってずっと同じことを繰り返してるわけです、と言ってしまったけど、実際にはそれだけじゃないわけですよね。例えばスティーブ・ライヒがミニマルミュージックってものを発明して、それは、あるユニットがずっと繰り返される、その繰り返されるものをさらに重ねあわせるということできている。そのときに、僕が昔、「テクノイズ・マテリアリズム」という本で書いたのは、テクノというものが生まれたときに、テクノっていうのはミニマルがやっていたことを機械でやったと、で、機械がやったら機械は絶対間違えないし、疲れないので、いくらでも繰り返せるし、正確に繰り返せてよかったねっていう話だと。じゃあ、テクノが出てきたことによって、ミニマルミュージックというものはより完璧な、より純粋なものになって、かつての無理やり人力でやってたことをやらなくてよくなったからそれは乗り越えられたの?というと、でもそういうことでは全然ないよね。ライヒとかがやってたことは、機械のようにひたすら反復するということで、もしかしたら元々の理念はそうだったのかもしれないけど、実際にそれをやってみたらやっぱりズレるよねっていう、完璧に本当のほんとに反復はできない、なぜなら人間だから。それがクリアに出ているスティーブ・ライヒがやったことの一番面白い、可能性の中心は「クラッピング・ミュージック」だと思うわけ、手拍子だけのやつね。あれは手拍子をやってて、あれもズレるわけなんだけど、ズレてるというのが完璧にズレているから面白いわけじゃなくて、やるたびにちょっとずつ違っているっていうことがいいんだよね。結局、機械だったら正確かつ無限の反復ができるということと、人間はそれを絶対できないよね、ということのピンポン運動みたいなことがあって。だから、さっきの話も、突き抜けるというときに、突き抜けるためにはこういうふうにやればいいんだっていう正解があって、ただその正解は技術的な意味での難易度が高いので、練習をいっぱいしててもなかなかたどり着かない。あるいは何回かに一回しかたどりつかないんですっていうことがたぶんあると思うわけ。で、そしたら、何回かに一回正解が出たときはもちろん思ったとおりにいったってことにはなってると思うんだけど、それが本当に良いのかというと、実際にはそうじゃないときのほうがいいってなったり。つまりやろうと思ってたことじゃない次元での面白味がでちゃうのが人体の面白いところで、それがロックっていうところと関係があると思うんだよね。つまり人間がやっているという。だからやっぱりあんまり上手くならなくていいっていうか。空間現代も当時から随分上手くなったけど、めちゃくちゃテクニカルにやられたら、逆にあっそう?みたいに思うと思う(笑)、むりやりやってる感じがすごいいいんだよ

野口 そうですね、だから本当は完璧な演奏をして突き抜けたいんだけど、最初から簡単にはできない曲ばかり作っているというのはありますね

佐々木 常に、普通だったら自分たちのバンドの演奏能力でできるものを作るけど、それよりも大分上を常にいくわけじゃない、常に無理くり練習して。それは無意識の中で、単なるチャレンジ精神じゃなくて、本当はこれがやりたいんだけどこういうふうになっちゃいました!みたいなことがやりたいというか、っていう感じもあるんじゃない?

野口 人力なんちゃらって、上手くなればなるほど、人力じゃなくていいじゃんってなる問題ですよね。それはすごいわかるんです。それだったら人力じゃないやつの機械の超精確な反復をいい音響で流してもらえばいいんですけど…となってしまう。だから、こっちも予期せぬ何かみたいなことが付随してこないと、突き抜けれないし、全部が全部自分がコントロールできる状況だったり…コントロールできることしかやらないというのはそんなに興味はないのかもしれない

佐々木 いや、ないでしょ。そうなってないもん。そういうときにさ、やっぱりバンドだってことは重要だと思うんだよね。一人だったらさ、ストイックにひたすら練習して、なおかつできることだけしかやらなければいいじゃない。でもさ、三人だから、その間にまた色々な誤差が生じて、今日は誰が調子が悪いとか、いろいろあるじゃん。だから、これはさ、なんでライブをやるか?という理由にもなってると思う。別にレコーディングだったらいくらでもごまかせちゃうわけで。これって「擦過」だけの話じゃなくて、元々空間現代がライブやってた、曲をバラバラにして毎回違う順番で、ある時間軸のなかで重ねあわせるみたいなことも結局そういうことだと思うんだよね。でもそういうことがたぶんライブバンドとしての空間現代の今一番の中心にあることで。「擦過」も、今はまだそのワークインプログレスの実験の途中かもしれないけど、僕は空間現代のやってることって、結構前代未聞のあんまり他の人がやったことないような、思ったことはあるかもしれないけど、やらない。やらないし、やれないことだと思うんだよね。しかも君たちはこれしかやらないっていうのがすごい。しかもこの「外」という場所もできてそれもますます加速していくと思うととても楽しみだね

(2016年3月26日 京都・外にて)
 
 
 
・・・・・
 
2017年9月23日(土)・9月24日(日)
《空間現代『擦過』大阪公演》
会場:名村造船所跡地/クリエイティブセンター大阪 BLACK CHAMBER
http://kukangendai.com/schedule/1709/